VOL.0 1999-2002

 1978年に東京で生まれた岩野ばくがDJ BAKUとしてキャリアをスタートさせたのは1994年、16歳のときだ。黒人の若者の暴力が渦巻くハードな青春と音楽への情熱をニューヨークを舞台に描いた映画『ジュース』(1992年公開)のDJバトルのシーンに感化されてのことだった。序章といえる「VOL.0 1999-2002」では、ここ10年の歴史を振り返る前に、それ以前のDJ BAKUについて迫ってみよう。DJ BAKUの根本的なスタイルや思想はこの時期に形成されている。

精神状態で言うと、いまでは信じられないほど卑屈だったね。友だちもいなかったし

 DJ BAKUは、ラッパーの般若(当時はYOSHI)とRUMIが結成したヒップホップ・グループ、般若での活動を経て、1999年にみずから設立したインディ・レーベル〈DIS-DEFENSE DISC〉よりソロ・デビュー・ミックステープ『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』を発表する。
 雨の日にゴミ捨て場で拾った40枚ほどのレコードの中から引き抜いたウォレン・スミス&中川昌三『邂逅/彩雲』と『タクシー・ドライバー』のサントラをスクラッチにソウルを込めミックスすることで、DJ BAKUはその後の彼にとって最も重要な“邂逅/KAIKOO”というテーマを立ち上げる。

 当時はクリエイティヴなエディットをアナログ・レコードとターンテーブル2台とVS-1680というハードディスクレコーダーだけでやりたくて、それをミックステープという作品にしたかった。『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』ではビョークの「Alarm Call」のイントロのスクラッチを何度もくり返したりしている。アナログを使って成長していきたかったし、当時はミックステープにいちばん可能性があると思っていた。自分が実験ができる場所だったんだよね。
 精神状態で言うと、いまでは信じられないほど卑屈だったね。友だちもいなかったし、当時の日本のヒップホップに対してもまったく良い印象を持っていなかった。ただ1990年代後半は、BOSSくん(THA BLUE HERBのILL-BOSSTINO。当時はBOSS THE MC)とかBUDDHA BRANDのエンジニアだったNUMBさんみたいな、ヒップホップを好きでやっていた人たちがストイックに進化していった時代でもあったと思う。

――ヒップホップだけではなくて、テクノ、ハウス、ダブ、エレクトロニカ、ノイズ、アヴァンギャルド、ハードコア、ロックとキャリアの初期から雑食的な音楽環境に恵まれていましたよね。それは自然な流れだったんですか?それとも意識的にそういう環境に身を置いていたんですか?

 親父がクラシックとかジャズのレコードを家でかけていたけど、当時は直接そんなに影響していないと思う。人と違うことをしないと認められないってわかっていたから、極端なほうにいったんだと思う。
 GOTH(-TRAD)もそうだったけど、GOTHはもう少し芸術的な考え方があったと思う。ノイズやアヴァンギャルドをアートとしてとらえていた。俺はそこは違った。ヒップホップとノイズを組み合わせるヤツはいないだろう、ヒップホップDJでノイズをかけるヤツはいないだろうって、それぐらいの考え。単純にノイズの爆音をDJとして上手く操ってみよう、音がでかければ人もびっくりするだろうとか、そういうところでしか俺は見ていなかった。
 そのころ、非常階段とかEYヨくんとかが出てた関西ローカルのテレビ番組を録画したビデオを大阪の人にもらったりして観てた。『精神解放ノ為ノ音楽』っていう番組で、非常階段がうんこを投げているライヴ映像があったり、EYヨくんがどれだけ天才かを記録してた。ただ、当時はそれを本気で凄いと思っていたというよりは、こういう面白い人たちがいるんだなぐらいでしか見ていなかった。

――下北沢にあった〈SHAKARA RECORD〉で働いていたことも大きかったんじゃないですか? 働き始めたきっかけは?

 もともとTAICHI(元GROUP/現stimのドラマー)がバイトしていて、俺、レコード屋でバイトしたことがなかったから、いいなあって思ってて。そしたら、店長のマサさん(OPUS-ONE名義でノイズ・アーティストとしても活動していた粉川雅行)が気に入ってくれたんだよね。それでやってみようってなって、1年ぐらい働いた。
 マサさんも変わっている人で、ヒップホップも実験音楽もダブもジャズもあって勉強になる上に、〈ニンジャ・チューン〉なんかもあって。マサさんは元々〈トイズファクトリー〉で働いている人だったから、昔の〈ニンジャ・チューン〉の音源をたくさん持ってた。お金がなかったから、それをタダで聴けるっていうだけで超嬉しくて。マサさんのところにいると、AUDIO ACTIVEもドラヘビ(DRY&HEAVY)も来るしさ。そのときはKRUSHさんとはニアミスで会ってなかった。
 〈SHAKARA RECORD〉に本当にいろんな人たちが集まっていたんだよね。七尾(茂太)さんとマサさんが仲良くてよく一緒に飲んでて、俺もそこに交じらせてもらって。20歳とかだからそれがすごく楽しかった。マサさんは30歳ぐらいだったし、そこにいるだけでいろんな音楽や話を聴けて楽しかった。秋本(武士)くんも出入りしてた。そんなあるとき、マサさんが下北沢の〈CHAI-HANE〉(のちの〈AFRORAKE〉)ってところで〈SHAKARA実験音楽会〉っていうイベントをオーガナイズして、そこでなかば無理矢理、俺とドラヘビの楽器隊をセッションさせたんだよね。

――それはいまや知られざる過去ですね。

 ただね、めちゃくちゃドラヘビの反応が無くて(笑)。たぶん向こうも意味がわかっていなかったと思う。「なんでこいつとやらせるんだろう?」ぐらいだったと思う。オチもなくて、何が起こるかわからないセッションだった。でも、そういう異種格闘技セッションって、2000年ぐらいに流行ってたと思うんだよね。
 たぶん俺がマサさんに面白がられていたのは、バトル的な細かいスクラッチをするヤツがディレイとかリヴァーブをかけまくったり、ジャズとかノイズとかいろんなレコードを使っていたからだと思う。そういうことやっているDJが俺ぐらいしかいなかったんだと思う。それで、「お前は可能性がある」っていろんな人とやらせたがったんだと思う。
 俺もやる気はあるからさ。その実験音楽会でGOTHもライヴしてたんだけど、GOTHは〈ワード・サウンド〉みたいな音で、お面を被ってライヴやってた。秋本くんがそのライヴを観たのがきっかけで、GOTHを口説き始めて、REBEL FAMILIAができたんだよね。セッションをした俺が何も思われていなくて、GOTH-TRADを気に入ったんだよね(笑)。マサさんには本当にいろんな人を紹介してもらって、いまでもすごい感謝してるね。

人を平等に見られる人間が本当にいい人間だと思ってて、KRUSHさんにはそれがあって安心した

 般若解散後から『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』発表まではわずかな月日だったが、DJ BAKUはその間苦悩していたという。孤立していたDJ BAKUに指針を与えたのが、DJ KRUSHの音楽と存在だった。

――〈SHAKARA RECORD〉とマサさんを通じた広がりの一方で、『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』に大きな反響があって、いろんな人たちと出会っていくという側面もあったんですよね。

 それもあったね。でもその前の年、1998年に『NO PAIN,NO GAIN』っていうタイトルのテープを出してるんだよね。この作品はDJ BAKU名義で出してるんだけど、1曲目に般若のフリースタイルが入ってた。まだ般若がRUMIと一緒にやっているころで、YOSHI名義でラップしてた。YOSHIちゃんのフリースタイルは、俺が高校生のころに知り合ったAV女優のビデオのタイトルをラップしたりしてるぶっとんだ内容で(笑)。
 数年後にそのAV女優の娘と会ったら、KAMINARI(-KAZOKU.)が〈CLUB CITTA`〉(当時は〈川崎クラブチッタ〉)でやってた〈雷おこし〉のライヴ映像のビデオを持ってて、その映像にまだ17歳のYOSHIちゃんとRUMIがステージにフリースタイルで乗り込んでいくシーンがあって。「お、ヤベぇ」って思って、そのビデオをRUMIにあげたりした。YOSHIちゃんがむちゃブチ切れてて、そのときにRUMIがZEEBRAさんにテープを渡しているんだよね。
 『NO PAIN,NO GAIN』はDMR(レコード・ショップ)が取り扱ってくれたりして、それなりに売れたんだよね。ターボやMARTIN、GAHACも参加してて。俺はけっこういい作品だと思ったんだけど、そんなに評判は良くなかった。それで、もっと振り切らないとだめだと思って作ったのが『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』だった。DJやるとか言って、学校も辞めていたしね。

―― 高校辞めてたんですね。

 最初は桜町高校っていう用賀の学校に行ってたんだけど、16歳のころにはDJを始めて、DJ SODEYAMAくんとイベントやってたり色々してたから、ぜんぜん勉強してなくて。どんどんバカになっていくし、それで学校を辞めちゃったんだけど、地元の友だちにテストとかやらなくても卒業できる高校があるらしいって聞いて、桜水商業に入り直したの。もう無くなっちゃったけど、当時は西永福にあって。
 でも、その高校がほんとにひどくて、1年で100人ぐらい辞めるぐらいむちゃくちゃだった(笑)。頭の色を毎日変えてくるヤツとか、大麻吸ってぶっとんで登校してくるヤツとか、昼間から超シンナー臭いヤツとか金髪ロン毛で授業中ずっとサングラスかけているヤツとか……ヤバイところ来ちゃったなって(笑)。俺もDJやって、1時間目から6時間目までずっと寝ているから、こんなに意味のないことはないと思って、そこも1年で辞めた。
 時々YOSHIちゃんとRUMIと同じ高校って勘違いされるけど、違うんだよね。俺は当時、「学校も辞めてDJやってる本格派です。本気度が違います」みたいなアピールをしてて(笑)、それでたぶん噂を聞きつけた2人から連絡が来たんだよね。

――『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』のころはラップ・シーンとの接点はなかった?

 般若(グループ)のトラウマがあったんだよね。若いころは漠然とラッパーのために曲を作ったりして食ってくのかなって思ってた時期もあったから、般若が終わったあとは悩んだ。自分は、流行の曲をNYスタイルで〈HARLEM〉とか渋谷の大箱で回すタイプでもないし、スクラッチで優勝できるスキルもないし、トラックも作っていなかったし、これはヤバイなって。
 ただ、DJで食おうとは思ってたし、天職だと思ったんだよね。人に良い音楽を紹介したい気持ちは強くて、ギターをやってもぜんぜん面白さがわからなかったけど、DJだけは違ったし。ちょうどそのタイミングでKRUSHさんを観たのが決定的だった。

――KRUSHさんに受けた衝撃はどのようなものだったんですか?

 当時はトランスが盛り上がってたし、ドラムンベースも流行り出したばかりで、BPMも速くて、音もどんどん派手になっていく時代だった。そんな時代にKRUSHさんはロー・ビートをやっていてあまりにも常識から外れていてショッキングだった。しかもそれで世界的に活躍してたからね。KRUSHさんぐらいの潔さがないとだめなんだなって思った。
 KRUSHさんの真似みたいに思われちゃうのはイヤだったけど、KRUSH POSSEがなくなってKRUSHさんがひとりでやり始めたのを聞くと状況的にも近かったかもしれない。でも10代後半の最初は、自分が若かったのもあるし、KRUSHさんのいるような世界を勝手にマニアックに感じてたんだよね。そんな俺にKRUSHさんの魅力を教えてくれたのはKOBOOさんって人だった。

――KOBOOさんはどんな方ですか?

 KIBOO/KOBOOっていう双子のDJがいて、当時KOBOOさんはラッパ我リヤのバックDJをやったり、テイ・トウワさんともつながりがあって、いまはGAINSっていうDJユニットで活動してて、DEXPISTOLSと一緒にやったりしてる。
 2人は、〈LIQUIDROOM〉を個人で初めて借りたって話を聞いたことがある。1998年ぐらいだったと思うけど、〈HEART〉っていうイベントを〈LIQUIDROOM〉でオーガナイズしてた。ZEEBRAさんとか当時DJ HONDAさんのいちばん近くにいたDJ YUZEさんとかラッパ我リヤも出てて、2時半か3時ぐらいまではヒップホップで、2時半以降はハウスになるようなイベントだった。
 ヒップホップとハウスが一晩で楽しめて、その混ざっている面白さがあった。だから最初に周りにいた人がヒップホップの人だけじゃなかった。
 〈GOLD〉にも遊びに行ったりしてたけど、ヒップホップじゃなくて、ハウスの日に遊び行ってたし。MAARくん(DEXPISTOLSのリミキサー/プロデューサー)のDJとかを聴きに行ってた。SODEYAMAくんには、「お前はミックスが下手だな」って言われて、「ピッチは現場で合わせないとだめなんだよ。ターンテーブルが古くなったりでそれぞれ違うから」って教わったり。いま思うと、俺は先輩に恵まれていたんだよね。

――なるほど。

 それで〈CAVE〉に遊びに行ったときにラッパ我リヤのつながりでKOBOOさんと知り合って家に行ったんだよね。当時KOBOOさんは25、26歳ぐらいだったと思うんだけど、なぜか〈GOLD〉のスピーカーがあるような家だった。
 ダフト・パンクの『HOMEWORK』を聴かせてくれたり、テイ・トウワのアルバムにストレッチ・アームストロングが参加しているとか、いろいろ教えてくれて。「お前が知ってるヒップホップだけがヒップホップじゃないぞ」って。
 そのときKRUSHさんの『阿口云』ってビデオを観て、これはカッコ良すぎるわってやられて、それでライヴを観に行ってもうヤバイって。
 当時は日本のラップを聴く気になれなかったし、外国で通用するものじゃないと思っていた。日本だけで調子に乗っていてもしょうがないというか、日本のなかで調子に乗っている人たちがイヤだったんだろうね。ぶっとばされたり、イヤがらせを受けたりもしたから。日本で調子に乗っている人にロクな人がいないと思ってた。
 人を平等に見られる人間が本当にいい人間だと思ってて、KRUSHさんにはそれがあって安心したし、アメリカの黒人のヒップホップだけじゃないヒップホップを知ったんだよね。

俺らはターンテーブリズムが進化していく興奮の中にいたんだよ

 2013年現在はそのタームを聞くことさえ稀になったが、デビュー当初はジャズのフリー・インプロヴィゼーションなどに喩えられ、“実験的”と評されたDJ BAKUのプレイを語る上で欠かせないのが、ターンテーブリズムである。それは、DJ BAKUのプレイ・スタイルが変化したいまも変わらない。

――2001年に『2nd MUSICS』を出しますね。

 『2nd MUSICS』は、そのころお世話になってた人たちに感謝する意味も込めて作った。マサさんに送る曲もスクラッチで作ってる。
 〈SHAKARA RECORD〉を辞めたあとあたりから、吉祥寺の〈STAR PINE`S CAFE〉でGOTH-TRADとかとイベントを始めて、そこに遊びに来てたフランス人のプロモーターの女の子に気に入られてフランスに呼ばれたんだよね。外国に行ったこともなかったのに、いきなりフランスでDJをしてさ。
 〈BATOFAR〉(2001年)っていう船上パーティで、日本人のDJやアーティストがたくさん出てた。GOTH-TRADやNUMBさん、KLOCKさんやCOM.Aやレイ・ハラカミさん、池田亮司さんもいた。DJのHIKARUくんやL?K?Oくんもいたね。そのイベントは大きかった。(坂井田)裕紀くん(〈POPGROUP〉のレーベル・オーナー)ともそのときフランスで会ってる。

――2000年前後は、クラブ・ミュージックの側から実験的な音楽に挑戦するDJ、ミュージシャン、プロデューサーが同時に浮上してきた印象がありましたよね。

 もてはやされたよね。ギャラもけっこうもらってたし。なんだったんだろう? あんなに踊れもしない音楽でね。珍しかったんじゃない。
 俺とかL?K?Oくんとか、ヒップホップが出所のDJがターンテーブルで実験的なことをやっているのが面白がられたんだと思う。ドラムンベースにスクラッチをメチャクチャ入れたりしてたら、DAZZLE-Tさんに気に入られたりもしたし。スクラッチをセンス良くやるDJはいたけど、俺みたいにメチャクチャやるヤツがいなかったんだと思う。ひたすら突っ込む、みたいな(笑)。KRUSHさんもセンスがいい人じゃないですか。

――『2nd MUSICS』はまさにスクラッチの嵐ですよね。

 ずーっとやってるでしょ(笑)。外人ではいるじゃん、ひたすらコスるDJって。だから、日本人はおとなしいなと思ってたし、そこが不満でもあった。

――DJ BAKUにとってターンテーブリズムは欠かすことのできない重要な要素ですよね。

 俺らは、いちばん多感な10代のころに、スクラッチの技が次々に開発される全盛期をリアルタイムで経験した世代なんだよね。Q・バートのビデオが出る度に買って、みんなで集まって観て、「わあ、この技、ヤベエな」って興奮してたのが18、19歳のころだった。Q・バートは、スクラッチでアルバムを作るのが一般的じゃなかった時代に『WAVE TWISTERS』(1998年発表)を出して、それを基にしたアニメも作って、ほんと毎回革新的なことをやってた。Q・バートは神様みたいな人だったよね。いまでも神様だけど。

――KRUSHさんがそうであるように、Q・バートもDJ BAKUのスターだったということですね。

 そうだね。俺はスクラッチがそんなに上手くなかったけど。ただ、ほとんどの人がスクラッチはアメリカがいちばんって考えていたかもしれないけど、「俺の友だちもその技できてるよ」って思ってたし、その興奮が伝わらないもどかしさはあった。
 だから、D・スタイルズといっしょにイベントをやったり、彼からインタヴューを受けたときすごい嬉しかった。俺がファースト(『SPINHEDDZ』)出したころだから、2006年だね。まだリリースされていないんだけど、D・スタイルズが世界中のいろんな人に話を訊いて回るっていうドキュメンタリーの企画があって。D・スタイルズをリスペクトしてたから、いちばん最初の〈KAIKOO〉にも呼んでる。
 いまでこそスクラッチの手法や技は出尽くしちゃってるけど、俺らはターンテーブリズムが進化していく興奮の中にいたんだよね。個性的で面白いターンテーブリストがどんどん出てくる時代だった。

〈ZETTAI-MU〉や〈MARY JOY〉のイベントに出てるDJとかラッパーはテレビには写らないけど、海外で活躍できる人たちだなって感じた

 2000年前後、“孤高”のDJ/ターンテーブリストだったDJ BAKUに大きな影響を与えた2つのイベント/レーベルがある。
 ひとつは、いち早くジャー・シャカやマッド・プロフェッサーといったUKのレゲエ・ミュージシャン/プロデューサーを日本に招聘し、とくにUKのレゲエ/ダブ、ベース・ミュージックと日本のクラブ・シーンを直結させてきたイベント/レーベル〈ZETTAI-MU〉である。
 もうひとつは、SHING02や、いまやこの国のインディ・ラップを代表するラッパーのひとりとなった田我流の『B級映画のように2』(2012年発表)を世に送り出した〈MARY JOY〉。〈MARY JOY〉は、00年前後にリヴィング・レジェンズやカンパニー・フロウらを日本に招聘し、日米のインディ・ヒップホップの重要な架け橋となったレーベルとしても知られている。 
 〈ZETTAI-MU〉と〈MARY JOY〉が素晴らしいのは、彼らが味気のない“呼び屋”ではなく、国境を越えた独創的な音楽文化を育んできたイベント/レーベルだからである。DJ BAKUが、彼らのコスモポリタンな感覚に魅了されたのは当然のことだった。

 俺にとって、〈GOLD〉と新宿の〈LIQUIDROOM〉は特別なクラブだった。行く度に興奮してたね。〈LIQUIDROOM〉でKURANAKAくんがオーガナイズする〈ZETTAI-MU〉と〈MARY JOY〉の肥後(徳浩/レーベル・オーナー)さんがやるイベントは、お金払って絶対行ってたもんね。
 〈ZETTAI-MU〉には、KRUSHさんやTHA BLUE HERB、ドラヘビはもちろん、カンパニー・フロウとかも出てたし、KURANAKAくんが大阪から東京まで来てオーガナイズしてるってのもすごかった。SHING02くんのライヴを始めて観たのは〈MARY JOY〉のイベントだったし。酒も飲まないし、ナンパもしなかった。20歳ぐらいのころの俺、めちゃくちゃ真面目だったなあ。

――いまとぜんぜん違うんじゃないですか。いまそんなに人のライヴとかDJ、真剣に観ないんじゃないですか?(笑)

 観てないね(笑)。問題あるよね。なぜ、そんなにはまってたんだろう。とにかく吸収したかったんだろうね。毎回知らないことだらけで興奮してた。
 でも当時、俺はいろんなDJやアーティストの文句をすごい言ってたと思う(笑)。「なんだよ、あいつスクラッチしないんじゃん」とか(笑)。ひねくれ過ぎてた。「俺のほうがヤバイっすよ」っていろんな人にアピールしてた。

――〈ZETTAI-MU〉や〈MARY JOY〉から受けたインパクト、他とは違うエネルギーは何だったんですか?

 本当の意味での海外レヴェルだと思った。〈ZETTAI-MU〉や〈MARY JOY〉のイベントに出てるDJとかラッパーはテレビには写らないけど、海外で活躍できる人たちだなって感じた。SHING02くんもそうだし、BOSSくんは日本語でラップしていたけど、BOSSくんの曲をKRUSHさんが海外でかけているとか、いろんなことが魅力的だった。

――アメリカだけを向いていなかったというのはありますよね。〈MARY JOY〉はリヴィング・レジェンズやカンパニー・フロウをはじめ、USインディ・ヒップホップを日本に積極的に紹介したり、『Tags Of Times』シリーズを出したりしてましたけど、彼らは主流のUSヒップホップへのカウンターだった。〈ZETTAI-MU〉はUKのレゲエ/ダブ、ベース・ミュージックと深いつながりがありますし。

 俺がGOTHに惹かれたのも同い年で珍しくヨーロッパの音楽に詳しかったからなんだよね。GOTHみたいにマッシヴ・アタックの話とかできるヤツが周りにいなかったから。
 当時は19歳ぐらいだから、いまでは恥ずかしい話だけど、「マッシヴ・アタック知ってるの?」って、それだけで仲良くなれた。GOTH、当時モヒカンだったし(笑)。GOTHはスクラッチとかについては知らなかったけど、俺はダブ・ミックスのこととか知らなくて、GOTHの家に行って、お互いいろいろ情報交換してた。GOTHが「ロブ・スウィフトってヤバくない?」って言ってきたりすることもあって、「え!? 知ってるの?」みたいなこともあったけど。
 〈ON-U〉もそのころ聴いて、「(UKの音楽は)大人だなー」って思ってた。常に革新的だし、新しいものが生まれてくるし、芸術的だよね。でも俺がいちばん好きなのはやっぱりアメリカの音楽なんだと思う。

――なるほど。そう考えると、近いシーンから出てきて、いまGOTH-TRADがUKのマーラと一緒にやっている一方で、BAKUさんがアメリカのブローステップやレイヴ・シーンに接近しているのは対照的だけど、腑に落ちますよね。

 GOTHはスクリレックスとかについて、「ああいう人たちがいるから、俺らが存在する意義がある、やりがいがある」みたいなことを言ってた。俺はスクリレックスが大好きだけど、俺はあれをダブステップだと思っていなくて、俺がスクリレックスをDJでかけているのは、ロックをかけているのと同じなんだよね。ビースティ・ボーイズとかレイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)をかけている気分で、爆発的に盛り上げたい。
 だから、俺はスクリレックスからダブを感じたことはない。本当のダブステップはGOTHとかマーラとか、俺も大好きなベンガとか、レゲエやダブを感じる人たちだと思う。この前、なんかのツアーの帰りの車でGOTHとそんな話をした。あの髭面のレコードかける人もいて……

――もしやDJハーヴィーですか?

 そうそう、ハーヴィーが後部座席にいて、その車の中でそんな話をしたのを覚えてる。GOTHは笑いながらディスってくるから、悪い印象を残さないんだけど、俺の音楽に対してもかっこ悪いと思ったら、「なんでこんなことやったの? ダサくねぇ」って言うようなヤツなんだよね(笑)。俺は俺で「いや、普通に俺はああいうの好きだからやった」って反論してさ(笑)。そう言えば、俺は「〈OUTLOOKFES〉の主催が、パソコンのOUTLOOKだったらヤバいよな」とかくだらない話ばっかりしてたな(笑)……昔からそんな感じで変わってなくて安心したよ。

サブカルチャーじゃなくて、メインカルチャーだと本気で思ってやってた

 日本のラップ・シーンと距離を置いていた/置かざるを得なかったDJ BAKUに転機が訪れるのは2002年のことである。この年、ヒップホップ/R&B専門誌『BLAST』(現在は休刊)の自主制作盤/デモテープを紹介する連載コーナーをきっかけにV.A『Homebrewer`s Vol.1』がリリースされる。DJ BAKUも参加したこのコンピレーションCDは、2000年代の“インディ・ヒップホップ元年”をドキュメントしたエポック・メイキングな1枚である。同じくこの盤に参加した新宿のハードコア・ヒップホップ・グループ、MS CRU(現在MSC)の登場によって、DJ BAKUは新たな歩みのきっかけを掴むこととなる。

――『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』や『2nd MUSICS』の発表後、雑誌やメディアからも取り上げられるようになりますよね。『クイック・ジャパン』(Vol.31 / 2000年)の記事では、「DJ BAKUは二〇〇〇年の阿部薫か?」って評されてます。メディアからの評価をどう受け止めてました?

 さすがに「阿部薫とは違うでしょ」って思ったけど、取り上げてもらえたのはすごい嬉しかった。当時『クイック・ジャパン』の編集者の人は良くしてくれたね。
 代々木公園であった〈HAPPERS ALLSTARS〉(2000年、代々木公園野外音楽堂で開催されたイベント。AUDIO ACTIVE、DRY&HEAVY、THA BLUE HERB、DJ YAS、1945 A.K.A KURANAKAが出演した)に北尾修一さん(元『クイック・ジャパン』編集長)が遊びに来てて、そのとき楽屋で「ハッパーズの周りの人たちやBAKUくんはすごくいいと思うんだよね」って言ってくれて。北尾さんはメジャーの音楽シーンもリアルに知っている人だったから、たぶん「カネを稼ぐことに重きを置いていない音楽をやってる」みたいな意味で褒めてくれたんだと思う。実際に俺もそういう気持ちは強かったし、「魂を売りたくない」っていう人たちが集まっていたんだと思う。
 ただ、“サブカルチャーの人”として取り上げられるのはイヤだったかな。でも、そう言うと取材が来なくなっちゃうから、黙ってた。俺はどんな雑誌にも出たい人だったから(笑)。

――正直な告白ですね(笑)。

 でも俺は、サブカルチャーじゃなくて、メインカルチャーだと本気で思ってやってたからさ。

――『クイック・ジャパン』(Vol.35 / 2001年)ではKRUSHさんと対談してますけど、印象に残っている批評や記事ってありますか?

 いちばん嬉しかったのは、『ele-king』(Vol .33 / 2000年)の「東京Bボーイ!」って特集に取り上げられたことだった。ZEEBRAさんとかRHYMESTERとかが取り上げられている特集に、まだアルバムも出してないDJの俺が入ってて複雑な気持ちだったけど、やっぱり嬉しかった。「ひとりレジスタンス」ってキャッチ・コピーを付けてくれてね。ひとりでブーブー言ってただけなのに(笑)。
 あのころはちょっと意地になってたんだよね。「ひとりでやるんだ」って。自分といっしょにやっていないヤツはみんな敵だと思ってた(笑)。単純に性格が歪んでたね。だから、『KAIKOO WITH SCRATCH 1999』とか『2nd MUSICS』はやさぐれてた時期の音楽なんだよね。元々は日本語のラップもカッコいいって思ってたはずだし、般若も天才だと思ってたのに、日本のラップは外国では通用しない恥ずかしいものだって思い込んでた。
 でも、当時日本で売れてたラップの中には、アメリカかぶれのものもたくさんあったとは思うけどね。輸入品みたいなものがいっぱいあった。
 だから、MSが出てきたときの衝撃はすごかった。TAB001(MSCのラッパー/グラフィティ・ライター)は友だちだったし、くん(MSCのラッパー/リーダー。現〈9sari group〉主宰)のことも知ってたけど、あんなラップをしてるなんて知らなかった。びっくりだったし、超オリジナルだと思った。

――MSCで最初に衝撃を受けたのは何を聴いたときでした?

 磯部(涼/音楽ライター。『Homebrewer`s Vol.1』の監修者のひとり)くんから「MSって知ってる? 聴いてみてよ」って言われて、俺は昔から知ってる友だちだったんだけど、「新宿アンダーグラウンド・エリア」(拡声器空間~MIC SPACE名義/V.A『Homebrewer`s Vol.1』収録)をそのとき初めて聴いて。
 まず、当時全盛だった渋谷に対抗して、新宿をレペゼンするのが衝撃だった。ラップって言葉とかメッセージだからいきがったら、不良にもすぐ伝わるでしょ。だから当時、ラップで不良的にいきがるのは不可能だなって俺は思ってた。しかも新宿から出てきたから半端じゃないと思った。その意味ですごいってことは、ほんとに一部の人しかわからないと思う。漢くんも当時、それがもどかしかったと思うんだよね。
 もちろん漢くんはラップもむちゃくちゃ上手いから、そこで評価されるのも最高だと思う。ただ、気合いも入ってて、ラップも上手いっていう、どっちも兼ね備えているヤツらはMSだけだった。

――それほどの説得力を持てたのはなぜだと思いますか?

 俺の予想だと、MSは怪しすぎたんだと思う。

――MSCには狂気があったのが大きかったんじゃないですか?

 当時、東京でラップでいきがることができたのは、オシャレな人たちしかいなかったと思う。そのカウンターで、MSは狂気が入ったんだと思う。新宿の歌舞伎町にあった〈izm〉ってクラブでMSが〈零グラヴィティー〉ってイベントをやってて、RUMIと2人で観に行って。人種もわからない感じだったし、シャドー・ボクシングやってるヤツはいるし、中東系の人がラップするわけでもなくステージにいるし、盛り上がっているわけでもない。しかもやたらガタイのいい黒づくめのヤツらがそろってて、セキュリティもいて。
 漢は、アメリカのヒップホップの組織を日本流のやり方でやろうとしてたんだと思う。それが渋谷のチャラチャラしたノリとは一線を画してた。かといって、ギャングでもない。MSは新宿が生んだ独特のグループだったんだろうね。すさんでるのが普通みたいな環境で生まれたグループだった。MSはそうとう革新的だった。
 しかも2002年の〈B-BOYPARK〉のMCバトルで漢が優勝して、いろんな人を認めさせた。KREVAさんはフリースタイルのラップでオチを作るのは上手いし、面白いことを言うのにかけては天才的だったと思う。ただ、言い方は悪いけど、KREVAさんのフリースタイルはビートやリズムとはあまり関係なかった。般若も天才だったけど、まだ時代が追いついてなかったし。漢くんはそこで、内容も上手さも兼ね備えたラップで優勝して一気に流れを変えたんだよね。漢くんはもっと評価されるべきだと思うよ。

(インタヴュー/文 二木信)